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・こどものころに、ま、仮に皿としようか、
皿を割ってしまうようなことがあったとき、
「お皿が割れちゃった」と、泣きべそで報告する。

すると、親や先生は、
「お皿が自然に割れちゃったの?
そうじゃないでしょ。割ったんでしょう?」と言う。
その言い方は、皿を割った当人としては不本意だった。
「割った」というわけじゃないと言いたかった。
足だか手だかがすべったとか、
よそ見をしててぶつかったとか、
じぶんの意志に反して皿を割ってしまうような場面に
「ぼくは巻き込まれてしまったのです」
と、言いたくてしょうがなかった。
ぼくが、あえて皿を割りたいわけはないでしょう。
「なにかのせい」で割れちゃったんですよと、
びすびす泣きながら訴えようとしたりしていた。

そうすると、おとなの人たちは、
「言い訳を言わない!」と、それを制した。
だって、ほんとのことだから‥‥。
口を尖らせて、ぼくは悪くないと言おうとした。
「ちゃんと謝りなさい。怒らないから」と、
最後のひとことが聞こえて、
だいたいは、そこでお終いになった。

ぼくの意志で皿を割るわけはないのだけれど、
なにかの理由があって皿を割るにいたった場合、
まず「わたしは皿を割った」と言うのがルールである。
こどものときに、このことがなかなか理解できなかった。
しかし、いまでは、これは大事なことだったと思うのだ。

たいていのよからぬことは、わざとやるわけではない。
なにかの事情や理由があって、そうなるのだ。
しかし、そのときに「事情や理由」のせいにしたら、
皿を割った「当事者」はいなくなってしまうのだ。
「なにかのせいにする」ことばかりしていたら、
じぶんとして生きていけなくなる。
そういう教育が、あの「わたしが割った」だった。
不可抗力でも、「わたしが割った」からはじまる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ドラマのなかの犯人は、たいてい、なにかのせいにしてる。

今日のダーリン 2014-9-24 (via drhaniwa)

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Schweinderl